十河家の歴史

History

本ページでは、古代から中世にかけての約千年ほどの十河家の歴史をできるだけわかりやすく解説しております。十河家についてあまりご存じでないという方やもっと詳しく知りたいという方は、ぜひご一読いただけると幸いです。

目次一覧

  • 十河氏考察
  • 十河城と十河家に関する文献紹介
  • 十河家の興亡を語る

十河氏考察

こちらは十河甲冑隊員であるホームページ管理者が郷土資料などをもとに十河氏について独自の考察をしたものです。全くの学術的見地に基づいて記述したものではございませんが、ご参考になればと存じます。

十河氏考察
十河氏考察

十河家と十河城に関する文献紹介

文献に現れる十河家の歴史の一端
香川県中世城館跡詳細分布報告書
県が調査した十河城に関する公的な報告書です。比較的信頼性の高い報告書と言えるでしょう。掲載された城郭縄張り図には、古い地名と城の位置とを照らし合わせており、往時に存在した城の姿を明らかにしています。画像はクリックすると拡大します。
讃州府志
香川県の郷土資料本として有名なものの一冊です。別名「翁媼夜話」とも呼ばれます。こちらには、十河家の歴史に関する概説がなされています。画像はクリックすると拡大します。

十河家の興亡を語る

 先ず(まず)文献(ぶんけん)記されて(しるされて)いる十河家(そごうけ)祖先(そせん)一番上(いちばんうえ)まで遡る(さかのぼる)と、(かみ)(くし)(おう)という人物(じんぶつ)辿り(たどり)着きます(つきます)。この(かみ)(くし)(おう)とは、第十二代景(だいじゅうにだいけい)(こう)天皇(てんのう)皇子(おうじ)ですが、兄弟(きょうだい)にはヤマトタケルノミコト(やまとたけるのみこと)がおり、神話(しんわ)時代(じだい)讃岐(さぬき)活躍(かつやく)した人物(じんぶつ)です。しかし、(かみ)(くし)(おう)子孫(しそん)名乗る(なのる)武将(ぶしょう)は、十河家(そごうけ)以外(いがい)にも讃岐(さぬき)にはたくさんあり、寒川(さんがわ)()高松(たかまつ)()三木(みき)()などがいます。つまり、彼ら(かれら)共通(きょうつう)先祖(せんぞ)は、(かみ)(くし)(おう)であり、太古(たいこ)(むかし)から讃岐(さぬき)基盤(きばん)として活動(かつどう)していたことがわかります。その後(そのご)時代(じだい)下って(くだって)武士(ぶし)時代(じだい)となる(ころ)には、先ほど(さきほど)挙げた(あげた)ような豪族(ごうぞく)が、(かみ)(くし)(おう)子孫(しそん)として(えだ)分かれ(わかれ)してゆき、讃岐(さぬき)固有(こゆう)武士(ぶし)へと成長(せいちょう)しました。その(なか)一人(ひとり)に、植田家(うえたけ)という一族(いちぞく)がいます。植田家(うえたけ)とは、現在(げんざい)高松市(たかまつし)南部(なんぶ)である、植田(うえた)拠点(きょてん)にしていた豪族(ごうぞく)です。
  さて、当時(とうじ)植田家(うえたけ)当主(とうしゅ)であった植田景(うえたかげ)(やす)には、三人(さんにん)子供(こども)がいました。ちなみに、この時代(じだい)相続(そうぞく)方法(ほうほう)は、長男(ちょうなん)一人(ひとり)がすべての遺産(いさん)相続(そうぞく)するというものではなく、兄弟(きょうだい)公平(こうへい)土地(とち)分割(ぶんかつ)するという慣習(かんしゅう)がありました。そのため、三人(さんにん)兄弟(きょうだい)長男(ちょうなん)太郎景(たろうかげ)(たつ)神内(じんない)土地(とち)与えられ(あたえられ)次男(じなん)三郎景之(さぶろうかげゆき)三谷(みたに)土地(とち)与えられ(あたえられ)三男(さんなん)十郎(じゅうろう)(よし)(やす)十川(そがわ)土地(とち)与えられました(あたえられました)三男(さんなん)十郎(じゅうろう)(よし)(やす)(のち)に十河(よし)(やす)名乗って(なのって)います。この人物(じんぶつ)こそ、十河家(そごうけ)初代(しょだい)であり、十河(そごう)一族(いちぞく)直接(ちょくせつ)ご先祖(ごせんぞ)(さま)にあたります。さらに、武家(ぶけ)慣習(かんしゅう)として、自分(じぶん)領地(りょうち)地名(ちめい)名字(みょうじ)にするケースが多かった(おおかった)ようです。そのため、十郎(じゅうろう)(よし)(やす)自身(じしん)領地(りょうち)である十川(そがわ)名字(みょうじ)とし、十河(そごう)という名字(みょうじ)代々(だいだい)受け継がれて(うけつがれて)ゆきました。もちろん(あに)太郎景(たろうけい)(たつ)三郎景之(さぶろうけいゆき)植田(うえた)(せい)から神内(じんない)三谷(みたに)という名字(みょうじ)変更(へんこう)しています。このような現象(げんしょう)起こる(おこる)理由(りゆう)は、植田(うえた)という同じ(おなじ)名字(みょうじ)一族(いちぞく)増えすぎる(ふえすぎる)のを防ぐ(ふせぐ)ためであったと同時(どうじ)に、どこの植田(うえた)一族(いちぞく)なのか区別(くべつ)するためでもあると考えられます(かんがえられます)
  こうして小さな(ちいさな)武士団(ぶしだん)集まり(あつまり)となった植田(うえた)一族(いちぞく)は、新た(あらた)時代(じだい)混乱(こんらん)巻き込まれる(まきこまれる)こととなります。それは、南北朝(なんぼくちょう)動乱(どうらん)です。当時(とうじ)室町(むろまち)幕府(ばくふ)ができてから()もないころで、南朝(なんちょう)北朝(ほくちょう)という二つ(ふたつ)王朝(おうちょう)皇位(こうい)をめぐって争い(あらそい)繰り広げて(くりひろげて)いるという非常(ひじょう)複雑(ふくざつ)時代(じだい)でした。そこにつけ込んで(つけこんで)足利(あしかが)将軍家(しょうぐんけ)()近づき(ちかづき)強い(つよい)権力(けんりょく)得た(えた)のが細川家(ほそかわけ)という武士(ぶし)です。細川家(ほそかわけ)には、細川(ほそかわ)(きよ)(うじ)という武将(ぶしょう)がいましたが、この人物(じんぶつ)将軍(しょうぐん)次ぐ(つぐ)執事(しつじ)という役職(やくしょく)就く(つく)と、権力(けんりょく)思う(おもう)ままに乱用(らんよう)し、将軍(しょうぐん)逆らう(さからう)ようなことが多々(たた)ありました。そこで、見かねた(みかねた)二代(にだい)将軍(しょうぐん)足利(あしかが)(よし)(あきら)細川(ほそかわ)(きよ)(うじ)討伐(とうばつ)命令(めいれい)下します(おろします)(きよ)(うじ)(へい)集める(あつめる)ために、本拠地(ほんきょち)である阿波(あわ)通り(とおり)讃岐(さぬき)向かいます(むかいます)が、三木郡(みきぐん)白山(しらやま)到着(とうちゃく)すると味方(みかた)(へい)募りました(つのりました)。このとき、我先(われさき)にと一番(いちばん)駆け付けた(かけつけた)のが十河(そごう)十郎(じゅうろう)(よし)(やす)でした。(きよ)(うじ)(よし)(やす)謁見(えっけん)することを許可(きょか)しましたが、(よし)(やす)は「(われ)()(けい)あり」と言い(いい)(あに)である神内(じんない)三谷(みたに)呼びました(よびました)(きよ)(うじ)大変(たいへん)喜び(よろこび)公饗(くぎょう)という(うつわ)扇子(せんす)三本(さんぼん)乗せて(のせて)三人(さんにん)(まえ)差し出しました(さしだしました)。すると、(よし)(やす)進み出て(すすみでて)扇子(せんす)取って(とって)二人(ふたり)(あに)与え(あたえ)残り(のこり)一本(いっぽん)持って(もって)公饗(くぎょう)とともに退きました(しりぞきました)(よし)(やす)勇壮(ゆうそう)行動(こうどう)感心(かんしん)した(きよ)(うじ)は、「神内(じんない)三谷(みたに)(かいせん)(せん)(まく)(もん)とすべし、十河(そごう)三方(さんぽう)乗せたる(のせたる)(おうぎ)(もん)とすべし」と言った(いった)(うえ)で、「十河(そごう)庶子(しょし)なれども、惣領(そうりょう)挙動也(きょどうなり)十河(そごう)をもって惣領(そうりょう)とす」と命じました(めいじました)。 
  これ以後(いご)植田(うえた)一族(いちぞく)十河家(そごうけ)率いられ(ひきいられ)神内家(じんないけ)三谷家(みたにけ)十河家(そごうけ)配下(はいか)有力(ゆうりょく)家臣(かしん)となったのでした。そのため、現在(げんざい)十河(そごう)(じょう)南北朝(なんぼくちょう)時代(じだい)十河(そごう)(よし)(やす)築城(ちくじょう)したものと考えられ(かんがえられ)十河家(そごうけ)勢力(せいりょく)拡大(かくだい)にともなって必要(ひつよう)不可欠(ふかけつ)なものだったのでしょう。その(あかし)十河家(そごうけ)棟梁(とうりょう)として武士団(ぶしだん)まとめ上げる(まとめあげる)ことにより、(いち)土豪(どごう)から讃岐(さぬき)影響力(えいきょうりょく)のある有力(ゆうりょく)武士(ぶし)となっています。この時代(じだい)有力(ゆうりょく)武士(ぶし)には、十河家(そごうけ)(ほか)に、讃岐(さぬき)出身(しゅっしん)寒川家(さんがわけ)香西家(こうざいけ)がいますが、細川家(ほそかわけ)命令(めいれい)関東(かんとう)から、安富家(やすとみけ)香川家(かがわけ)という新興(しんこう)武士(ぶし)讃岐(さぬき)にやってきます。先ほど(さきほど)説明(せつめい)したように細川家(ほそかわけ)は、足利(あしかが)政権(せいけん)権力(けんりょく)振るった(ふるった)一族(いちぞく)で、守護(しゅご)という(いま)でいえば(けん)知事(ちじ)のような役職(やくしょく)何か国(なんかこく)兼任(けんにん)していました。しかし、細川家(ほそかわけ)京都(きょうと)にいることがほとんどで現地(げんち)赴く(おもむく)ことができないので、守護代(しゅごだい)という代理人(だいりにん)武士(ぶし)各地(かくち)派遣(はけん)し、現地(げんち)での政治(せいじ)行政(ぎょうせい)などを全て(すべて)彼ら(かれら)任せて(まかせて)いました。安富家(やすとみけ)香川家(かがわけ)もそのような経緯(けいい)守護代(しゅごだい)として讃岐(さぬき)来た(きた)のです。彼ら(かれら)新参者(しんざんしゃ)ではありましたが、(とら)()借りる(かりる)(きつね)のように細川家(ほそかわけ)権力(けんりょく)後ろ盾(うしろだて)とし、次々(つぎつぎ)讃岐(さぬき)豪族(ごうぞく)屈服(くっぷく)させることで自ら(みずから)支配下(しはいか)組み込みました(くみこみました)
  しかし、そのような状況(じょうきょう)にありながらも、十河家(そごうけ)彼ら(かれら)対等(たいとう)立場(たちば)にあったのではないかと考えられます(かんがえられます)文安(ぶんあん)二年(にねん)(1445(ねん))には、守護(しゅご)である細川家(ほそかわけ)安富家(やすとみけ)宇多津(うたづ)香川家(かがわけ)多度津(たどつ)十河家(そごうけ)方本(かたもと)庵治(あじ)管理権(かんりけん)与えて(あたえて)います。細川家(ほそかわけ)安富(やすとみ)香川(かがわ)十河(そごう)三者(さんしゃ)与えた(あたえた)漁港(ぎょこう)管理権(かんりけん)とは、讃岐(さぬき)から京都(きょうと)物資(ぶっし)送る(おくる)輸送(ゆそう)(せん)管理(かんり)任されて(まかされて)いたということです。十河家(そごうけ)は、細川家(ほそかわけ)家臣(かしん)ではなかったにも関わらず(かかわらず)、このような守護代(しゅごだい)同等(どうとう)権利(けんり)与えられて(あたえられて)いたことは注目(ちゅうもく)すべきところです。また、細川家(ほそかわけ)についてもう少し(すこし)具体的(ぐたいてき)説明(せつめい)すると、京都(きょうと)にいる細川家(ほそかわけ)本家(ほんけ)(けい)兆家(ちょうけ)呼ばれて(よばれて)おり、正確(せいかく)にはこの(けい)兆家(ちょうけ)讃岐(さぬき)支配(しはい)していたので、安富家(やすとみけ)香川家(かがわけ)守護代(しゅごだい)任命(にんめい)したのでした。さらに、(けい)兆家(ちょうけ)分家(ぶんけ)有力(ゆうりょく)な者がいました。この一族(いちぞく)阿波(あわ)拠点(きょてん)としたので、阿波(あわ)細川家(ほそかわけ)呼ばれました(よばれました)十河家(そごうけ)安富家(やすとみけ)香川家(かがわけ)(けい)兆家(ちょうけ)仕える(つかえる)のとは対照的(たいしょうてき)に、阿波(あわ)細川家(ほそかわけ)とは友好(ゆうこう)関係(かんけい)にあったようです。この友好(ゆうこう)関係(かんけい)その後(そのご)続き(つづき)(のち)十河家(そごうけ)大きな(おおきな)影響(えいきょう)をもたらすことになります。
  さて、時代(じだい)下って(くだって)戦国(せんごく)時代(じだい)十河家(そごうけ)当主(とうしゅ)十河存(そごうまさ)(はる)という(ひと)がいました。しかし、(まさ)(はる)には跡継ぎ(あとつぎ)がいなかったので、阿波(あわ)の三好家から養子(ようし)迎える(むかえる)ことにしました。この養子(ようし)こそが、(おに)十河(そごう)十河(そごう)一存(かずまさ)です。ちなみに一存(かずまさ)(あに)三好(みよし)長慶(ながよし)という大物(おおもの)武将(ぶしょう)です。この(ひと)阿波(あわ)細川家(ほそかわけ)家臣(かしん)でしたが、下剋上(げこくじょう)によって主君(しゅくん)細川家(ほそかわけ)凌ぎ(しのぎ)近畿(きんき)治める(おさめる)までに成長(せいちょう)します。このため、三好(みよし)長慶(ながよし)(てん)下人(かびと)呼ばれ(よばれ)三好家(みよしけ)天下(てんか)(いち)武士(ぶし)(だい)出世(しゅっせ)させた人物(じんぶつ)でした。一存(かずまさ)には長慶以外(ながよしいがい)にも兄弟(きょうだい)がおり、阿波(あわ)治めた(おさめた)()好実休(よしじっきゅう)淡路(あわじ)治めた(おさめた)安宅(あたぎ)(ふゆ)(やす)がいます。そして、長慶(ながよし)実休(じっきゅう)(ふゆ)(やす)一存(かずまさ)三好四(みよしよん)兄弟(きょうだい)協力(きょうりょく)したおかげで天下(てんか)取る(とる)ことができたのでした。十河家(そごうけ)養子(ようし)となった一存(かずまさ)でしたが、讃岐(さぬき)での三好家(みよしけ)勢力(せいりょく)拡大(かくだい)貢献(こうけん)します。
  当時(とうじ)讃岐(さぬき)東側(ひがしがわ)治めて(おさめて)いた寒川家(さんがわけ)安富家(やすとみけ)お互い(おたがい)領土(りょうど)隣り合って(となりあって)いることから、領土(りょうど)境界(きょうかい)をめぐって戦争(せんそう)起こす(おこす)ことが多く(おおく)大変(たいへん)(なか)悪かった(わるかった)といいます。そこで、一存(かずまさ)彼ら(かれら)(なか)入って(はいって)仲裁(ちゅうさい)することが多々(たた)ありました。なぜなら、一存(かずまさ)には三好家(みよしけ)阿波(あわ)細川家(ほそかわけ)といった有力(ゆうりょく)阿波(あわ)(ちから)借りる(かりる)ことができたからです。そのため、第三者(だいさんしゃ)として度々(たびたび)仲裁(ちゅうさい)入る(はいる)一存(かずまさ)は、寒川家(さんがわけ)安富家(やすとみけ)双方(そうほう)から厚い(あつい)信頼(しんらい)得る(える)ことができました。一存(かずまさ)活躍(かつやく)見た(みた)(あに)()好実休(よしじっきゅう)は、天文(てんぶん)二十二年(にじゅうにねん)(1553(ねん))に(おとうと)一存(かずまさ)命じて(めいじて)讃岐(さぬき)武士(ぶし)三好家(みよしけ)降伏(こうふく)するようにすすめました。これを聞いた(きいた)安富(やすとみ)盛方(もりかた)寒川(さんがわ)(まさ)(くに)はすぐに降伏(こうふく)し、一方(いっぽう)香西元(こうざいもと)(まさ)抵抗(ていこう)しようとしましたが、三好(みよし)()従う(したがう)しかないと判断(はんだん)したため、降伏(こうふく)しています。その後(そのご)命令(めいれい)従わなかった(したがわなかった)香川家(かがわけ)討伐(とうばつ)するために()好実休(よしじっきゅう)一万八千(いちまんはっせん)大軍(たいぐん)率いて(ひきいて)香川家(かがわけ)居城(きょじょう)である(あま)(ぎり)(じょう)攻めて(せめて)います。しかし、(しろ)落城(らくじょう)しなかったので、()好実休(よしじっきゅう)香川家(かがわけ)降伏(こうふく)をすすめました。これに香川之景(かがわゆきかげ)同意(どうい)したため、讃岐一(さぬきいっ)(こく)三好(みよし)()支配下(しはいか)に収まりました。
  このように三好家(みよしけ)讃岐(さぬき)攻略(こうりゃく)比較的(ひかくてき)容易(ようい)進んだ(すすんだ)のは、十河(そごう)一存(かずまさ)活躍(かつやく)によるところが大きい(おおきい)のではないでしょうか。寒川家(さんがわけ)安富家(やすとみけ)領土(りょうど)問題(もんだい)介入(かいにゅう)し、宥和(ゆうわ)政策(せいさく)取りながら(とりながら)徐々(じょじょ)にその頭角(とうかく)現し(あらわし)十河家(そごうけ)讃岐(さぬき)武士(ぶし)たちの脅威(きょうい)となっていったのです。一存(かずまさ)(いくさ)上手(じょうず)なだけでなく、こういったところにも手腕(しゅわん)発揮(はっき)されており、当時(とうじ)人々(ひとびと)一存(かずまさ)(おに)十河(そごう)恐れて(おそれて)いた理由(りゆう)がわかります。
  三好家(みよしけ)長男(ちょうなん)長慶(ながよし)筆頭(ひっとう)(かい)進撃(しんげき)続いて(つづいて)いたように見えます(みえます)が、(えい)(ろく)年間(ねんかん)以降(いこう)からその様子(ようす)一変(いっぺん)します。(えい)(ろく)三年(さんねん)(1560(ねん))、(あに)長慶(ながよし)助ける(たすける)ために阿波(あわ)()好実休(よしじっきゅう)河内(かわち)出兵(しゅっぺい)しますが、討ち死に(うちじに)します。また、戦い(たたかい)最中(さなか)には、十河(そごう)一存(かずまさ)亡くなって(なくなって)おり、(えい)(ろく)七年(しちねん)には三好(みよし)長慶(ながよし)死去(しきょ)しています。たった数年間(すうねんかん)相次いだ(あいついだ)三好四(みよしよん)兄弟(きょうだい)()は、三好家(みよしけ)大きな(おおきな)打撃(だげき)与え(あたえ)一族(いちぞく)家臣(かしん)統制(とうせい)がとれないまま空中分(くうちゅうぶん)解して(かいして)ゆくこととなります。
  この混乱(こんらん)起こって(おこって)いる最中(さなか)新た(あらた)十河家(そごうけ)当主(とうしゅ)として十河存(そごうまさ)(やす)三好家(みよしけ)から迎えられました(むかえられました)一存(かずまさ)には重存(しげまさ)存之(まさゆき)という二人(ふたり)子供(こども)がいましたが、重存(しげまさ)三好(みよし)長慶(ながよし)養子(ようし)として三好家(みよしけ)本家(ほんけ)継いで(ついで)おり、存之(まさゆき)嫡男(ちゃくなん)ではないという理由(りゆう)から十河家(そごうけ)跡継ぎ(あとつぎ)候補(こうほ)から外されて(はずされて)いました。そこで、一存(かずまさ)(あに)である()好実休(よしじっきゅう)()迎える(むかえる)ことになり、(のち)十河存(そごうまさ)(やす)となりました。(まさ)(やす)十河家(そごうけ)当主(とうしゅ)であると同時(どうじ)に、鉄砲(てっぽう)産地(さんち)である(さかい)支配(しはい)三好家(みよしけ)から任されて(まかされて)いました。したがって、鉄砲(てっぽう)入手(にゅうしゅ)可能(かのう)であったため、十河家(そごうけ)戦国(せんごく)時代(じだい)末期(まっき)独自(どくじ)鉄砲隊(てっぽうたい)組織(そしき)していたものと思われます(おもわれます)。つまり、これが現在(げんざい)十河(そごう)(じょう)鉄砲隊(てっぽうたい)のルーツなのです。
  ところで、讃岐(さぬき)はどのような状況(じょうきょう)だったのかといいますと、三好家(みよしけ)衰退(すいたい)乗じて(じょうじて)、再び香川家(かがわけ)香西家(こうざいけ)らが三好家(みよしけ)反発(はんぱつ)し、三好(みよし)勢力(せいりょく)一掃(いっそう)図って(はかって)います。しかしながら、当時(とうじ)三好家(みよしけ)寒川家(さんがわけ)討伐(とうばつ)のみに専念(せんねん)しており、もはやそのような余力(よりょく)はありません。また、この(ころ)には土佐(とさ)長曾我部家(ちょうそかべけ)阿波(あわ)攻めて(せめて)きているため、必然的(ひつぜんてき)()(ぬき)からの撤退(てったい)迫られた(せまられた)のでした。さらに、阿波(あわ)三好家(みよしけ)当主(とうしゅ)であった三好(みよし)長治(ながはる)家臣(かしん)暗殺(あんさつ)されてしまったため、(まさ)(やす)()()三好家(みよしけ)家督(かとく)継ぐ(つぐ)という事態(じたい)陥って(おちいって)いました。つまり、十河存(そごうまさ)(やす)讃岐(さぬき)阿波(あわ)両方(りょうほう)治め(おさめ)十河家(そごうけ)三好家(みよしけ)棟梁(とうりょう)として分裂(ぶんれつ)した一族(いちぞく)をまとめる立場(たちば)にあったのです。そのため、(まさ)(やす)十河(そごう)(じょう)から阿波(あわ)(しょう)(ずい)(じょう)拠点(きょてん)移し(うつし)三好家(みよしけ)全勢力(ぜんせいりょく)以て(もって)長曾我部家(ちょうそかべけ)軍勢(ぐんぜい)抵抗(ていこう)しました。その(かん)十河(そごう)(じょう)は、一存(いちそん)実子(じっし)であった三好存之(みよしまさゆき)城代(じょうだい)として(まさ)(やす)代わり(かわり)(しろ)守って(まもって)いました。
  しかし、しばらくすると阿波(あわ)(しょう)(ずい)(じょう)落城(らくじょう)し、(まさ)(やす)讃岐(さぬき)(とら)丸城(まるじょう)移って(うつって)防戦(ぼうせん)続けます(つづけます)が、(てん)(しょう)十年(じゅうねん)(1582(ねん))に長曾我部家(ちょうそかべけ)香川(かがわ)親和(ちかかず)大将(たいしょう)として三万五千(さんまんごせん)軍勢(ぐんぜい)十河(そごう)(じょう)攻めて(せめて)います。しかし、城代三好存之(じょうだいみよしまさゆき)家臣(かしん)前田甚之丞(まえだじんのじょう)活躍(かつやく)のおかげで防ぎきる(ふせぎきる)ことができました。この(あいだ)に、(まさ)(やす)羽柴(はしば)(ひで)(よし)援軍(えんぐん)要請(ようせい)し、(せん)(ごく)(ひで)(ひさ)讃岐(さぬき)派遣(はけん)されますが、屋島(やしま)高松(たかまつ)(じょう)攻める(せめる)退却(たいきゃく)しています。翌年(よくねん)六月(ろくがつ)には再び(ふたたび)長曾我部家(ちょうそかべけ)攻めて(せめて)きており、(せん)(ごく)(ひで)(ひさ)讃岐(さぬき)引田(ひけた)戦います(たたかいます)敗北(はいぼく)し、(まさ)(やす)十河(そごう)(じょう)移って(うつって)います。前回(ぜんかい)(いくさ)から数か月(すうかげつ)しか経って(たって)いないということもあり、城兵(じょうへい)疲弊(ひへい)領内(りょうない)荒れ果てて(あれはてて)いるという状況(じょうきょう)でした。さらに、十河家(そごうけ)家臣(かしん)だった()佐家(さけ)裏切る(うらぎる)など、讃岐(さぬき)大半(たいはん)武士(ぶし)は長宗我部家(がべけ)属し(ぞくし)十河家(そごうけ)孤立(こりつ)無援(むえん)状態(じょうたい)となっていました。落城(らくじょう)悟った(さとった)城主存(じょうしゅまさ)(やす)は、降伏(こうふく)申し入れ(もうしいれ)自身(じしん)屋島(やしま)から備前(びぜん)経由(けいゆ)して(さかい)羽柴(はしば)(ひで)(よし)頼って(たよって)敗走(はいそう)しています。これにより、(てん)(しょう)十二年(じゅうにねん)(1584(ねん))に十河(そごう)(じょう)落城(らくじょう)し、讃岐(さぬき)長曾我部家(ちょうそかべけ)によって平定(へいてい)されました。
  ところが、翌年(よくねん)(てん)(しょう)十三年(じゅうさんねん)には羽柴(はしば)(ひで)(よし)(おとうと)羽柴(はしば)(ひで)(ちょう)大将(たいしょう)とした四国(しこく)遠征軍(えんせいぐん)派遣(はけん)し、長曾我部元(ちょうそかべもと)(ちか)降伏(こうふく)させることに成功(せいこう)します。長曾我部家(ちょうそかべけ)から没収(ぼっしゅう)した讃岐(さぬき)は、(せん)(ごく)(ひで)(ひさ)与え(あたえ)、そのうちの山田郡(やまだぐん)二万石(にまんごく)十河存(そごうまさ)(やす)与え(あたえ)讃岐(さぬき)領主(りょうしゅ)として再び(ふたたび)返り咲いた(かえりざいた)のでした。羽柴(はしば)(ひで)(よし)のおかげで領地(りょうち)奪還(だっかん)することができたかのように思われました(おもわれました)が、羽柴(はしば)(ひで)(よし)はさらに九州(きゅうしゅう)大友宗麟(おおともそうりん)救援(きゅうえん)するため、(せん)(ごく)(ひで)(ひさ)新た(あらた)命令(めいれい)として、島津家(しまづけ)討つ(うつ)ように指示(しじ)しています。このとき、(ひで)(ひさ)配下(はいか)には、十河存(そごうまさ)(やす)長宗(ちょうそ)我部元(かべもと)(ちか)など四国(しこく)軍勢(ぐんぜい)がおり、その(かず)はおよそ六千人(ろくせんにん)及びました(およびました)。しかし、島津家(しまづけ)謀略(ぼうりゃく)により(せん)(ごく)(ひで)久軍(ひさぐん)(うそ)をつかれて混乱(こんらん)し、敗戦(はいせん)終わりました(おわりました)。この戦い(たたかい)では、十河存(そごうまさ)(やす)をはじめとする多く(おおく)諸将(しょしょう)討ち死に(うちじに)し、讃岐(さぬき)武士(ぶし)にとって(なん)利益(りえき)もなく、ほとんどが没落(ぼつらく)することとなりました。
  (まさ)(やす)には、(せん)松丸(まつまる)という跡継ぎ(あとつぎ)がいましたが、(まさ)(やす)亡くなった(なくなった)(あと)生駒家(いこまけ)預けられた(あずけられた)直後(ちょくご)死亡(しぼう)しています。一説(いっせつ)には、生駒家(いこまけ)による毒殺(どくさつ)ではないかと(うわさ)されていますが真相(しんそう)定か(さだか)ではありません。いずれにせよ、十河家(そごうけ)本家(ほんけ)はこのときに断絶(だんぜつ)し、一族(いちぞく)武士(ぶし)捨てて(すてて)現代(げんだい)まで子孫(しそん)生き残りました(いきのこりました)
   続いて(つづいて)十河(そごう)(じょう)についてお話し(おはなし)します。(さき)(はなし)にありましたように、十河(そごう)(じょう)正確(せいかく)築城(ちくじょう)(ねん)不明(ふめい)ですが、おそらく、十河家(そごうけ)植田家(うえたけ)から分家(ぶんけ)した十河(そごう)十郎(じゅうろう)(よし)(やす)のときに築城(ちくじょう)されたという見方(みかた)妥当(だとう)なのではないかと思われます(おもわれます)十河(そごう)(じょう)別名(べつめい)西尾(にしお)(じょう)といい、その()通り(とおり)讃岐(さぬき)山脈(さんみゃく)から高松(たかまつ)平野(へいや)向かって(むかって)伸びて(のびて)いる(いる)丘陵(きゅうりょう)尾根上(おねじょう)築かれて(きずかれて)おり、周囲(しゅうい)丘陵(きゅうりょう)丘陵(きゅうりょう)(あいだ)谷筋(たにすじ)形成(けいせい)され、湿地帯(しっちたい)広がって(ひろがって)いるという地理的(ちりてき)条件(じょうけん)恵まれた(めぐまれた)場所(ばしょ)位置(いち)しています。(ほか)豪族(ごうぞく)との位置(いち)関係(かんけい)としては、西(にし)香西家(こうざいけ)勝賀(かつが)(じょう)(ひがし)寒川家(さんがわけ)昼寝(ひるね)(じょう)(みなみ)一族(いちぞく)である植田家(うえたけ)戸田(とだ)(じょう)がありました。(しろ)について「南海通記(なんかいつうき)」という(れき)史書(ししょ)によると、五重(ごじゅう)土塁(どるい)築かれ(きずかれ)(ほり)相当(そうとう)切り立って(きりたって)おり、やはり深田(ふかだ)呼ばれる(よばれる)湿地帯(しっちたい)囲まれて(かこまれて)いたことが知られて(しられて)います。そして、(いま)(しろ)西側(にしがわ)には(さぎ)(いけ)という大きな(おおきな)(いけ)があり、東側(ひがしがわ)には県道(けんどう)挟んで(はさんで)小さな(ちいさな)水路(すいろ)がありますが、これらは(ほり)名残(なごり)であると考えられます(かんがえられます)。また、丘陵(きゅうりょう)最高所(さいこうしょ)本丸(ほんまる)(あと)とされ、現在(げんざい)では(しょう)念寺(ねんじ)があります。本丸(ほんまる)北側(きたがわ)には()(まる)があるのですが、その(あいだ)には、(はば)が15メートル、深さ(ふかさ)6メートルを超える(こえる)大きな(おおきな)空堀(からぼり)残って(のこって)います。現在(げんざい)では土橋(つちばし)がありますが、当時(とうじ)固定(こてい)されていないから(から)くり橋(くりばし)があり、(てき)侵入(しんにゅう)()には、橋げた(はしげた)外して(はずして)(てき)侵入(しんにゅう)断ち(たち)(なか)入って(はいって)きた(てき)攻撃(こうげき)したということです。さらに、()(まる)片隅(かたすみ)には一存(かずまさ)(まさ)(やす)(せん)松丸(まつまる)十河家(そごうけ)三代(さんだい)墓所(ぼしょ)があります。(しろ)西側(にしがわ)田畑(たはた)となっており、(もと)姿(すがた)がわからない現状(げんじょう)となっておりますが、丘陵(きゅうりょう)斜面(しゃめん)一帯(いったい)家臣(かしん)屋敷(やしき)構えられて(かまえられて)いたことが伝わって(つたわって)います。このような現在(げんざい)残る(のこる)遺構(いこう)から推定(すいてい)すると、(しろ)縄張り(なわばり)東西(とうざい)140メートル、南北(なんぼく)250メートル程度(ていど)小規模(しょうきぼ)城郭(じょうかく)であったことが想定(そうてい)されます。そのため、籠城(ろうじょう)()には多く(おおく)(へい)収容(しゅうよう)することが難しかった(むずかしかった)ので、三か月分(さんかげつぶん)兵糧(ひょうろう)用意(ようい)した(うえ)屈強(くっきょう)兵士(へいし)千人(せんにん)選び出し(えらびだし)(しろ)守り(まもり)にあたらせていたことが伝えられて(つたえられて)います。このように小規模(しょうきぼ)ながらも巧み(たくみ)戦略(せんりゃく)によって(しろ)守り抜いた(まもりぬいた)十河家(そごうけ)は、知略(ちりゃく)武勇(ぶゆう)優れた(すぐれた)武将(ぶしょう)であったことが想像(そうぞう)されます。

十河戦国お城まつり公式ホームページです。本イベントは令和元年に香川県初の甲冑武者行列まつりとして始まりました。一昨年と去年は、新型コロナウイルス感染症拡大の影響で二年連続の中止となりましたが、今年は3年ぶりの開催が決定いたしました。十河城鉄砲隊は、第一回のおまつり後に結成され、この日のために日々練習に励んできました。練習の成果を皆様に発揮できるよう頑張りたいと思います。たくさんの皆様のご来場をお待ちしております!